
「日本で一番長く刑務所にいた人って、どんな事件を起こしたんだろう?」 「64年も服役するなんて、一体どんな人生だったの?」
もしかしたら、あなたもそんな疑問を持ったことがあるかもしれませんね。この記事では、日本一長く服役したとされる稲村季夫さんという男性について、彼が起こした事件内容や、64年という途方もない年月を刑務所で過ごし、どのようにして社会に戻ってきたのか、そして出所後に何を感じたのかを、分かりやすく解説していきます。
彼の壮絶な人生を知ることで、罪と罰、そして人の更生について深く考えるきっかけになるかもしれません。
幼少期と非行への道
稲村季夫さんの人生は、決して平穏なものではありませんでした。彼の長い服役生活の背景には、どのような子供時代があったのでしょうか。
満州からの引き揚げと貧困生活
稲村さんは1933年(昭和8年)5月、今から90年以上前に生まれました。子供の頃は、満州という、今の中国東北部にあった地域で過ごしました。しかし、第二次世界大戦が終わり、1946年に家族と一緒に日本へ引き揚げてきました。
当時の日本は戦争に負けたばかりで、満州などから引き揚げてきた人たちにとっては、とても厳しい状況でした。仕事も住む場所も簡単には見つからず、稲村さん一家も東京や埼玉などを転々としながら、大変貧しい生活を送ることになります。
少年院、そして刑務所へ
食べるものにも困る生活の中で、稲村さんは近所の子供たちと一緒に豆腐を売って、家計を助けようとしました。しかし、次第に素行の悪い友達と付き合うようになり、少しずつ道を踏み外していきます。
1950年、17歳の時には、知り合いのお金を使ってしまったことが原因で、少年院に入ることになりました。少年院は、非行を犯した少年少女が反省し、社会復帰を目指すための施設です。
しかし、少年院を出た後も、稲村さんの生活は安定しませんでした。
- 窃盗(せっとう): 人の物を盗むこと
- 詐欺(さぎ): 人をだましてお金などを手に入れること
- 覚醒剤(かくせいざい)使用: 法律で禁止されている薬物を使うこと
などを繰り返し、ついに二十歳の時に、初めて刑務所に入ることになってしまいました。
日本一長く服役した事件内容:最初の殺人
刑務所を出たり入ったりする生活を送っていた稲村さんですが、彼の人生を決定的に変え、日本一長く服役する直接的な原因となった事件が起こります。
上司殺害の動機と無期懲役判決
1958年5月19日、稲村さんが25歳の時でした。埼玉県米町(現在のさいたま市の一部)にあった工場で働いていた稲村さんは、上司である田辺さん(仮名)を殺害してしまいました。
なぜ、そんなことをしてしまったのでしょうか?きっかけは、仕事に関する約束でした。田辺さんは稲村さんに「3ヶ月働いたら、本採用にする(正社員のような扱いにする)」と約束していました。しかし、その約束が守られなかったことに、稲村さんは強い恨みを抱いたのです。
この事件により、稲村さんは浦和地方裁判所(現在のさいたま地方裁判所)で無期懲役(むきちょうえき)という判決を受けました。
【知っておこう!】無期懲役(むきちょうえき)とは? 刑務所に入る期間が決まっていない、とても重い刑罰のことです。名前の通り「無期」なので、理論上は一生刑務所にいる可能性もあります。ただし、刑務所での態度が良く、深く反省していると認められれば、「仮釈放(かりしゃくほう)」といって、一定期間服役した後に条件付きで社会に戻れる可能性もあります。
この最初の殺人事件が、彼の長い長い服役生活の始まりとなりました。
服役中の凶行:2度目の殺人
最初の殺人事件で無期懲役となった稲村さんですが、彼の服役生活はこれで終わりませんでした。信じられないことに、刑務所の中でも再び重大な事件を起こしてしまうのです。
受刑者殺害事件と再びの無期懲役
無期懲役の判決を受け、千葉刑務所に収監されていた稲村さん。しかし、その翌年の1959年7月8日、刑務所内で、同じ受刑者である鈴木和夫さん(仮名)を、別の受刑者と協力して殺害してしまいました。
動機は、鈴木さんに馬鹿にされたことへの怒りでした。刑務所という閉鎖された環境の中で、感情が爆発してしまったのかもしれません。
この刑務所内での殺人事件によって、稲村さんは再び裁判にかけられ、またしても無期懲役の判決を受けることになりました。二度も無期懲役判決を受けたことで、稲村さん自身も「もう二度と社会には戻れないだろう」と考えるようになったと言われています。この二度目の事件が、彼の日本一長く服役するという運命を、より決定的なものにしたのです。
過酷な刑務所生活と網走刑務所での日々
二度目の無期懲役判決を受け、「どうせ出られない」と自暴自棄になった稲村さんは、刑務所の中でも特に扱いにくい「処遇困難者(しょぐうこんなんしゃ)」とみなされるようになりました。
全国各地の刑務所を転々とする
処遇困難者となった稲村さんは、一つの刑務所に長く留まることはなく、日本全国の様々な刑務所を次々と移されることになります。
- 網走刑務所(あばしりけいむしょ): 北海道にある、特に厳しいことで知られる刑務所
- 大阪刑務所(おおさかけいむしょ)
- 広島刑務所(ひろしまけいむしょ)
そして、最後に送られたのが、熊本県にある**熊本刑務所(くまもとけいむしょ)**でした。
網走刑務所での壮絶な体験
特に稲村さんにとって過酷だったのが、1960年代から70年代にかけて収容されていた網走刑務所での日々でした。彼は「ほぼ」と呼ばれる、布団一枚だけが置かれた、とても狭い独房に入れられました。
そこでの生活は、私たちの想像をはるかに超える厳しいものでした。
- 両腕を背中で固定される
- 片腕ずつ、お腹の前と背中の後ろで固定される
このような、体がほとんど動かせない状態で、なんと半年もの間、過ごさなければならなかったのです。これは、受刑者の行動を制限するための、非常に厳しい処罰でした。
死を覚悟した独居房での生活
そんな過酷な環境の中で、稲村さんは何度も「もう死ぬかもしれない」と思ったそうです。しかし、同時に「こんな惨めな人生で終わりたくない」という強い気持ちも持っていました。
そのため、独房の中でもできる限りの運動、例えば腕立て伏せや腹筋などを毎日欠かさず続けました。また、もともとタバコやお酒を飲まず、暴飲暴食もしない健康的な生活を送っていたことも幸いしました。皮肉なことに、この厳しい刑務所生活と自己管理が、彼の健康を支える結果となったのです。
しかし、この時期の稲村さんは、決して模範的な受刑者ではありませんでした。仲の良い受刑者がトラブルを起こして罰を受けると、その代わりに刑務官や他の受刑者を襲撃するなど、服役中にもさらに別の事件で判決を受けることもあったのです。まさに、更生とはほど遠い、荒れた日々を送っていました。日本一長く服役することになる背景には、こうした服役中の更なる問題行動も影響していたと考えられます。
更生への転機:一人の刑務官との出会い
長年にわたり、反抗的な態度を続け、更生とは無縁に見えた稲村さんの人生に、変化の兆しが見え始めます。それは、最後に送られた熊本刑務所での、一人の刑務官との出会いがきっかけでした。
堀さんとの出会い
熊本刑務所の寮で、いつものように稲村さんが運動している姿を見かけた一人の刑務官がいました。その刑務官は堀さん(仮名)と呼ばれていました。堀さんは、稲村さんの鍛えられた体を見て、「この男は使えるな」と思ったそうです。
そして、堀さんは稲村さんにこう声をかけました。 「俺が今度担当することになった工場に降りてこい。悪いようにはせんから」
この、たった一言が、稲村さんの固く閉ざされていた心に、大きな変化をもたらしました。
稲村さんは後にこう語っています。「その時、堀さんに報いないといかんなと思いました。そこまで言われたからには、この親父にかけてみようと。それが出所につながるからと考えたわけじゃなくて、どうせ刑務所にいるなら、親父のためにやってやる、と」。
刑務作業への真摯な取り組み
堀さんの言葉をきっかけに、稲村さんはそれまでの反抗的な態度を改め、工場での堀さんの指示に素直に従うようになりました。
例えば、15分しかない入浴時間のことです。稲村さんは、まず体に障害のある他の受刑者の入浴を手伝い、その後に急いで自分の体を洗い、最後には、浴室にある全ての洗面器やシャワーを元の位置にきれいに整えてから浴室を出る、ということを、なんと6年間も続けました。
「私を試すためだったと思うが、途端にそういう重労働を押し付けられたんで、最初はちょっと不満だったけど、やっているうちに、偉い人から『ご苦労さん、稲村、頑張ってるな』と声をかけられるようになりました。」と稲村さんは振り返ります。そして、「そうした状況を、堀さんが作ってくれた」と感謝の気持ちを述べています。
堀さんという一人の刑務官の存在と、その言葉が、絶望の中にいた稲村さんに、再び前を向いて生きる力を与えたのです。
64年の服役、そして仮釈放
堀さんとの出会いをきっかけに、真面目に刑務作業に取り組むようになった稲村さん。長い長い年月が経ち、ついにその時が訪れます。
なぜ仮釈放が許されたのか?
2022年6月、稲村さんは熊本刑務所から仮釈放(かりしゃくほう)されました。その時の年齢は89歳。服役期間は、なんと64年にも及んでいました。少年院に入っていた期間も含めると、人生のうち70年もの間、矯正施設で過ごしたことになります。これは、記録に残る中では日本一長く服役した例とされています。
【知っておこう!】仮釈放(かりしゃくほう)とは? 刑務所に入っている人が、決められた刑期が終わるよりも早く、条件付きで社会に戻ることです。「更生の意欲がある」「再び罪を犯す可能性が低い」「社会が受け入れてくれる環境がある」などの条件を満たし、反省していると認められた場合に、審査を経て許されることがあります。無期懲役の場合でも、この仮釈放が認められる可能性があります。
では、なぜ二度も殺人を犯し、二度の無期懲役判決を受けていた稲村さんの仮釈放が認められたのでしょうか?その詳しい理由は、稲村さん自身にも知らされていません。
しかし、熊本刑務所での堀さんとの出会いが、彼の態度を大きく変え、真面目に務めるきっかけとなったことは間違いありません。その後の長年にわたる模範的な態度や、高齢であること、そして受け入れてくれる人がいたことなどが考慮された結果だと考えられます。
たった一人の刑務官の、たった一度の声かけが、絶望の中にいた受刑者の人生を大きく変え、64年という異例の服役生活に終止符を打つきっかけとなったのです。
64年ぶりの社会:出所後の生活と戸惑い
89歳で、実に64年ぶりに刑務所の外に出た稲村さん。彼が最後に自由な社会で生活していたのは、まだ日本が高度経済成長期に入る前のことでした。社会は、彼が想像していた以上に大きく変化していました。
出所時に持っていたお金は、刑務所での作業で得た報奨金(ほうしょうきん:刑務作業に対して支払われるお金)で、約130万円ほどだったと言います。
自動販売機との格闘
刑務所の中でもテレビや雑誌を見ることはできるので、世の中の出来事について、ある程度の知識は持っています。しかし、知識として知っていることと、実際にそれを体験するのとでは、大きな違いがありました。
例えば、街でよく見かける自動販売機。これは稲村さんが刑務所に入った後に日本中に普及したものです。出所後、飲み物を買おうと自動販売機の前に立った稲村さんですが、どうやってお金を入れたらいいのか分かりませんでした。お札を折りたたんで、無理やり入れようとしたそうです。「1000円札を入れても何も出てこないから、自動販売機が壊れているんじゃないかと思った」と語っています。
刑務所では知らなかった社会の変化
自動販売機だけでなく、スマートフォン、電車の自動改札、コンビニエンスストアなど、64年の間に社会は劇的に変化しました。稲村さんにとって、見るもの、触れるものすべてが新鮮であり、同時に戸惑いの連続だったことでしょう。まるで浦島太郎のような心境だったかもしれません。
外ですれ違う子供が「おはようございます」と挨拶してくれるだけで、「自分の存在が認められたようで嬉しい」と感じるほど、社会とのつながりに飢えていたのかもしれません。
罪の重さと更生への決意
64年ぶりに自由を手に入れた稲村さん。しかし、その心には喜びだけでなく、新たな痛みが生まれていました。それは、自分が犯した罪の重さに対する、深い後悔の念でした。
被害者への思いと罪の意識
「甘いものを自由に食べられる時、私のせいで人生を絶たれた被害者のことが頭をよぎる」
稲村さんは、出所後にこう語っています。刑務所の中にいた時には、そこまで深く考えることがなかった罪の重さを、自由な社会に出て、普通の生活を送る中で、改めて痛感するようになったのです。自分が当たり前に享受している日常が、奪ってしまった被害者の人生の上にあることに、苦しみを感じているようでした。
二度の殺人という、取り返しのつかない事件を起こしたことへの罪悪感は、日本一長く服役した後も、彼の心に重くのしかかっています。
新たな人生への決意
出所時89歳、そして現在は91歳となった稲村さん。(※記事執筆時点の情報)残りの人生を、彼はどのように生きていこうとしているのでしょうか。
「自分という欲望を抑えて、人のために生活しなければいけない。辛いことがあっても、それ以上に私のために辛い思いをした人がいたと考える」
静かにそう語る稲村さんの言葉には、過去の過ちへの深い反省と、これからの人生を贖罪(しょくざい:罪をつぐなうこと)に捧げたいという強い決意が感じられます。
現在は健康状態が悪化し、入院中とのことですが、彼が更生への道を歩み続けようとしていることは確かです。
まとめ:日本一長く服役した男の64年と更生への道
この記事では、日本一長く服役したとされる稲村季夫さんの人生と、彼が起こした事件内容、そして更生への道のりについて見てきました。
二度の殺人、過酷な刑務所生活、そして更生
- 稲村季夫さんは、貧しい生い立ちから非行に走り、25歳で上司を殺害し無期懲役となります(最初の事件内容)。
- さらに服役中に、他の受刑者を殺害し、再び無期懲役判決を受けます(二度目の事件内容)。
- 「処遇困難者」として全国の刑務所を転々とし、特に網走刑務所では想像を絶する過酷な日々を送りました。
- しかし、熊本刑務所で出会った一人の刑務官の言葉をきっかけに、更生の道を歩み始めます。
- 実に64年という日本一長い服役期間を経て、89歳で仮釈放されました。
- 出所後は、社会の変化に戸惑いながらも、自分が犯した罪の重さと向き合い、「人のために生きる」と決意しています。
稲村季夫の事件が問いかけるもの
稲村季夫さんの64年という異例の服役生活は、私たちに多くのことを問いかけています。
- 人は罪を犯した後、本当に更生することができるのか?
- 長い年月を経ても、罪を償うとはどういうことなのか?
- 刑事司法制度や刑務所の役割とは?
- 環境や人との出会いは、人の人生をどれほど変える力を持っているのか?
彼の人生は、人間の弱さや過ち、そして同時に、変化の可能性をも示唆しています。簡単に答えが出る問題ではありませんが、日本一長く服役した男の物語を知ることは、これらの問いについて深く考える上で、貴重な機会となるでしょう。